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塩狩峠 と 打坂地蔵尊 の 感動の話

W綾子 混同してたよ~ の記事の中で、三浦綾子さんの著書の例として、塩狩峠 を挙げていたので この話を・・。 まずは 塩狩峠 の元となった 鉄道事故Wikipedia様より 1909年(明治42年)2月28日、ここ塩狩峠区間に差し掛かった旅客列車の客車最後尾の連結器が外れて客車が暴走しかける事故がおこった。その車両に乗り合わせていた鉄道院(国鉄の前身)職員の長野政雄(ながの まさお)が、暴走する客車の前に身を挺して暴走を食い止めた。下敷きとなった長野は殉職したが、これにより乗客の命が救われた。現在、塩狩峠の頂上付近にある塩狩駅近くに顕彰碑が立てられている。 職業意識と究極的な自己犠牲によって多くの人の命を救った、もう偉いと言う言葉しか浮かばない。 これと似たような事故が、長崎県の時津と言う所で起きていたのは あまり知られていないので、この事故を またWikipedia様より 打坂地蔵尊長崎バス事故):1947年当時の打坂は現在より勾配がきつく、しかも片側が深い崖になっており、運転手からは「地獄坂」と恐れられた難所であった。戦後すぐの当時のバスは現在のようなディーゼルエンジンではなく、木炭バスとよばれる木炭を代替燃料に使用したバスであった。走行中にエンジンが停止することも多かったので、坂道では乗客が降りてバスを押すこともあった。1947年(昭和22年)9月1日、大瀬戸(旧大瀬戸町)発長崎行きの路線バスのエンジンが停止した。運転手はブレーキをかけようとしたが故障しており、そのままバスは坂を後退していった。バスを降りて止めるように指示された車掌鬼塚道男は、石を車止めにしようと試みたものの、加速がついており、多くの客がバスに乗っていたため、バスは石を乗り越えてしまい、崖まであとわずかというころまで迫った。その時、鬼塚道男車掌が自らバスと車輪の間に潜り込み、崖まであと数メートルというところで自分の体を輪止めにしてバスを止めた。乗客・運転士は全員無事だったが、鬼塚車掌は搬送先の病院でわずか21歳というあまりに短い生涯を終えた。 とっさの判断とは言え、まだ21歳、痛ましい事故過ぎて言葉が無いほど。 長崎バスHP・打坂地蔵尊には、詳細が今も掲載されています。